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今日から夫は出勤。
だけれど昨日の実家からの帰り、もう朝ごはんの準備する体力は残っていなくて、コンビニでおにぎりを買った。

自分のも買って、気持ちとしては100年ぶり、、正確にはたぶん4年ぶりとか?くらいに、市販のおにぎりを食べた。
最後に食べたのは海苔がフィルムに包んである三角の、具の入ったあれで、でも今朝はそういうのじゃなく、まっしろの、塩むすび。
びっくりした。
ちょっと、なんというか、強烈な味がした。

このもう8年くらい、週に5日の朝ごはんは、夕べ自分の握った塩おにぎり。
帰省した時に妹が握ってくれたちいさいおにぎりはとても美味しかったし、それ以来の、いつもと違う味をちょっと楽しみにしていて、でもなんだろう、想像と、というか、記憶とだいぶ違う味だった。
いやコンビニのあの塩むすびを食べたのなんて、10年以上前に一回か二回か、くらいのものだけれど。
普段インスタントや市販のものをなるべく避けているわたしには、想像出来ない世界だったらしい。

記憶と違う、そういうことはいくつもある。
懐かしいねって買ってみたお菓子を、え、こんな甘かったっけ、、って食べきるのに苦労してヨーグルトと一緒にしないと食べられない、とか。

子どものころは、田舎で、そもそもコンビニというだけで憧れだったんだけどな。
一年に一回も行かない今。

一昨年かな、初めて見て、わぁっと感動したとある古い映画を、こないだまた見て、良かった、けれどそこまでの感動にはならなくて、それにも少し似ていて、
知らないことが多い方が感動できる、なんて当たり前のことで、年を重ねれば重ねるほど、既視感、
でもね、わぁっと感動しなくても、もうそれ食べたい、って思えなくなっても、それ自体がダメとかじゃ全然なくて、もう今の自分には必要のないもの、っていうだけのことで。

正しい間違っている、じゃない、あくまで、わたしにとって、必要があるかないか。 

そういうので言うと、夫の母はすごい。
85になり、もうあれこれめんどくさいのよ、と言ってほとんど料理をしないのだけど、といいながらも作ってくれたお雑煮は美味しかったのだけど、元々、家庭的というよりは外で働いて来た人で、まぁ、わたしとは全く違う感覚の女性。

でもわたしに対して、働きなさいよ、子ども生みなさいよ、みたいな風はまるっきりなくて、昨日も、ちょっと持って行ったサラダを食べながら、こんなの切るだけでも大変だったでしょう、すごいわねぇとか、そう本当に優しく言ってくれる。
この親にしてこの息子なんだなとつくづく。

人それぞれいろんな価値観がある、
わたしの二倍以上、もはや三倍近く生きている母の、そんなところは見習いたいなと思う。
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昨日母が、久しぶりにグラタンを作った、と言った。
この暑いのに?と聞いたら、甥っ子が夏休みで給食がないから、乳製品を摂らせたかったらしい。
好き嫌いの多い彼も、ばぁばのグラタンはもりもり食べるらしい。

母のグラタン、といえば。
(この話、前にも書いたと思うので、あぁ聞いたことあるなって方もいるかもですが、また)

上京する前、家を契約するために一旦東京へ行く日。
当時付き合っていた人と出かけていて、夕方家に帰って、さぁお風呂に入って準備して夜行バスに乗ろう~と思ったら、母が台所で、グラタンを作っていた。

そもそも母がこんな早い時間に家にいること自体がめずらしく、しかもグラタン。
びっくりした。とてもうれしかった。
この日はエビとマカロニと野菜、玉ねぎとすこしの人参だったかな、の入った、いやぁ何年ぶりだろう。
白くてあつあつの愛しいグラタン。
でもわたしはそれを、半分も食べられなかった。

ほんの数時間前、遅いランチにチキンドリアを食べたことを呪いながら、早く行こうよってとっくに食べ終えた妹に急かされながら、食べたい、美味しい、苦しい、でもこれ無理に突っ込んだらバスに酔うことは見えている、あぁ、冷めていくホワイトソース。。。

もうやめとき、ってけらけら笑いながら言う母。
あのときの悲しさといったら。

子供の頃は、冷蔵庫のなか、グラタン皿に既にセットされていたそれの、ラップを剥がして、自分でパン粉をかけて、まずレンジですこし温めてトースターで焼くよう言われていた。
妹とふたりで食べるのに、トースターにふたつは入らなくてひとつずつ焼いて、熱々のを網の手前に置いた平たい皿に滑らせて。
作って置いてくれていたごはんを食べる、だけど、グラタンにおいては、寂しい感じもしなかったな。

母のグラタンは、全然特別でもなんでもない、普通のグラタン。
チキンの時とエビの時があった。
本当に普通。
でも、なんだろう。
あのマカロニの柔らかさとか玉ねぎの厚みとか、やっぱりあぁあれが食べたい。

母のグラタンを見たのは、その夜が最後。
今度帰省する時にはグラタン、作ってもらおう。今度はちゃんとお腹空かして。
夜から雨予報、どんよりだけど晴れ間も見えるなぁの朝。
信じて洗濯物干していたら、突然、どたどたっと何かが倒れたような音がして、見たら、すでにどしゃ降り!

え?ほんの10秒前まで晴れてたじゃん!、大慌て取り込んで、すぐ洗濯機へ。濯いでもらうあいだにハンガーと洗濯ばさみを洗って拭いて、、、いやほんの数分のことだけれど、なんか、気の遠くなるような作業、、、終わった頃にはもうすっかり止んでいた。
いったいなんなのか。。
今日に限ってちゃんとナウキャスト見なかったわたしが悪いかな。

びくびくしながら買い物行って、降らずに帰れて、やっぱり明るいうち縫って。
夕方からざあざあの雨。
生ぬるい、蒸し暑い日だった。
久しぶりに上着要らず、冷えを感じずにいられた。

心がかさかさしていたのはだいぶ直った。
相も変わらず縫ってはコースターひとつに何時間も何日もかかり、毎晩の台所の片付けに二時間以上、休みの朝なんて焼いて食べて片付けたら三時間半が経っているという始末。
性格かもしれないし、ちょっとどこかおかしいのかもしれない、けど、どんなに苦しくともそうしたいのだから、仕方がないのだと考える。

今日はまた野菜を買いすぎて、置くところないし傷むのつらいしで、一時間かけて刻んだ。
無心になる夕方。
そんなに夕飯にも作り置きにもいらないので、おやつ代わりに少し食べて、あぁいったい何をしているのか、、

そんな風です。
遅い遅い時間ない手がいたい、とか言いながら、明日も結局そんな風だろうな。
今日は人参玉ねぎ牛蒡と紫キャベツを永遠みたいに切ったけど、明日はそれが人参玉ねぎ生姜パプリカになる、だけのことだ。
今日大方の形まで行ったコースターの、明日は角を補強するのだ。

苦しくても、間違っていても、これが楽しい。
こんなことに悩んでいるなんて、わたしは本当に恵まれているよう。
子どもの頃、自分でいうのは可笑しいけれど、賢い子どもだった、らしい。

運動音痴だし身体は弱いし、こわがりで神経質で、いやいやどこが。って感じだけど、勉強だけはできた。
学校の先生になりたいと思っていた。
本当は家庭科の先生になりたかったけど、じゃなくて勉強の教科の先生、と言った方が大人には喜ばれた。

両親が離婚して、転校して、友達はできたけれど新しい小学校になんとなく馴染めなかった。
いろんな人がいる、いろんな価値観があることを知った。

中学でも、友達はできたけれど、やっぱりなんとなく馴染めなかった。
吹奏楽部に入ったけれど途中で辞めた。
あまりに音楽センスがなくて、母がピアノの先生なのに、習っておけばよかったと心から思った。

そんな下手なのに部活に真剣だったし、友達とか恋愛とか、いわば遊ぶことにも夢中で、だんだんと勉強もできなくなった。
どんどん落ちていくテストの順位。
絵にかいたような挫折。笑

中学の後半は学校にあまり行けていない。
履歴書を書くときには高校中退、と書いてきたけれど、実際のところ中学中退みたいなもの。

人生に絶望していた時期がある。
でも、これ、といった明確な悩みや問題なんてなかった。
楽しいこともあった。
ただ、これ、といった夢や目標もなかった。

そんなときに、学校の外に友人ができた。
ちいさな雑貨屋で出会った年上の人たちは、田舎ではあまり見ない、家でひとり見ていた雑誌(zipperとcutie、今もあるのかなぁ)、の世界に通ずるもの。
恋愛の話や、学校の話じゃない、趣味の話ができる人と出会った。
好きなものを好きだと言ってもいいんだ、と知った。
学校のなかでは、こんなこと言ったら引かれるかも。というのがどうしてもあったから。

当時は、田舎でお店もなく、お金もなくて、今みたいにスマホもなかったから、自分のほしいものを手に入れたり発信したり、というのがそんなに簡単ではなかった。
だから欲しいものは作るしかなかった。
母も祖母も手芸が好きだったから、布や材料はいっぱいあったし、有るもので、だったけど、思うように作れたときの喜びは、何にも代えがたいものだった。

長いですね。
そしてどうでもいい話ですね。。
もうおわりにしましょう。

バイトして、上京して結婚して、いろいろ回り道もしていっぱい迷惑をかけた。
変わったことも変わらないこともある。
いつまでたっても身体は弱い。運動は出来ないし怖がりだし、今もはや勉強もできない。

今日わたしは洗濯して掃除して、ミシン踏んで、アイロンかけて、お菓子焼いてごはん作って洗い物して、掃除した。
この数年、わたしは明確な目標を持てずにいる。
腱鞘炎になる前に思い描いていた未来と、現実とのギャップ。

でも、これが好きだという気持ちだけは明確にある。
古い小説を読んでいて感じるのは、言葉の難しさや文体の違いより寧ろ、生きる死ぬということについてで、
死、というものの遠さがもう、全然違う。

昨日書いた、お義父さん、夫の父のこと。
若いころに結核を患って、長く入院していた、らしい。
治って退院して、働き、義母と結婚して息子と娘を育て、定年まで勤め、六十九で癌で亡くなった。

わたしが夫と出会ったときにはもうこの世に居なくて、お義父さんはどんな人だったか、夫から、義母から、聞くことしかできなくて、
入院して本ばかり読んでいたころのことや、「俺の命は拾ったようなもの」だと笑っていたらしいけれどのそんな気持ちを、実際、
それをどう想像したって。
夫でさえわからないと言う。
わたしには到底わからないと思う。

いつだったか義母が、父について、
「十分呑めないままにいっちゃった」とぽつりと言ったのに、夫が、「いやもう十分すぎるくらいに呑んだよ」と言った。
あのなんともいえない一瞬!
つまりはごくありふれた、普通のそして最高に幸福な家庭だったのだと、心から知る。

今年はいろんなことを考えるけれど、とりわけ、生命、がついてまわる。
母が倒れた最初、電話で、「三割、三割、三割」だと言われた。
でも今何事もなかったみたいに元気に過ごしているのを見ると、本当にもう心底、安心する。

時代が代わる。生活が変わる。
昨日飲んだビールのラベルには、1876年と書いてあった。さっき読んだ小説は、1930年に発行されたものだった。
わたしは昭和何年といわれても、西暦で聞かないとすぐにはわからない。

かわるもの、かわらないもの。
わかること、わからないこと。

今読んでも小説は同じ小説であり、ビールはビールだ。

意味不明の日記をごめんなさい。
平成最後の年に生まれた甥っ子は、さっき、バナナを食べていました。
Furuyama saki
神奈川県在住
1993年3月生まれ
高校を中退後、2010年よりアクセサリーの製作活動を開始。
個展、通販、雑貨店での販売と同時に、フィルム写真やZINEも製作発表。
2015年、結婚を機に、暮らしに調和する布小物「mel」を開始。
現在は不定期オープン、スロー活動中です。

29歳年上夫とふたり暮らし。
リネンと、おやつとコーヒー、洗濯を愛しています。
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