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"文"カテゴリーの記事一覧

  • 人生について
    子どもの頃、自分でいうのは可笑しいけれど、賢い子どもだった、らしい。

    運動音痴だし身体は弱いし、こわがりで神経質で、いやいやどこが。って感じだけど、勉強だけはできた。
    学校の先生になりたいと思っていた。
    本当は家庭科の先生になりたかったけど、じゃなくて勉強の教科の先生、と言った方が大人には喜ばれた。

    両親が離婚して、転校して、友達はできたけれど新しい小学校になんとなく馴染めなかった。
    いろんな人がいる、いろんな価値観があることを知った。

    中学でも、友達はできたけれど、やっぱりなんとなく馴染めなかった。
    吹奏楽部に入ったけれど途中で辞めた。
    あまりに音楽センスがなくて、母がピアノの先生なのに、習っておけばよかったと心から思った。

    そんな下手なのに部活に真剣だったし、友達とか恋愛とか、いわば遊ぶことにも夢中で、だんだんと勉強もできなくなった。
    どんどん落ちていくテストの順位。
    絵にかいたような挫折。笑

    中学の後半は学校にあまり行けていない。
    履歴書を書くときには高校中退、と書いてきたけれど、実際のところ中学中退みたいなもの。

    人生に絶望していた時期がある。
    でも、これ、といった明確な悩みや問題なんてなかった。
    楽しいこともあった。
    ただ、これ、といった夢や目標もなかった。

    そんなときに、学校の外に友人ができた。
    ちいさな雑貨屋で出会った年上の人たちは、田舎ではあまり見ない、家でひとり見ていた雑誌(zipperとcutie、今もあるのかなぁ)、の世界に通ずるもの。
    恋愛の話や、学校の話じゃない、趣味の話ができる人と出会った。
    好きなものを好きだと言ってもいいんだ、と知った。
    学校のなかでは、こんなこと言ったら引かれるかも。というのがどうしてもあったから。

    当時は、田舎でお店もなく、お金もなくて、今みたいにスマホもなかったから、自分のほしいものを手に入れたり発信したり、というのがそんなに簡単ではなかった。
    だから欲しいものは作るしかなかった。
    母も祖母も手芸が好きだったから、布や材料はいっぱいあったし、有るもので、だったけど、思うように作れたときの喜びは、何にも代えがたいものだった。

    長いですね。
    そしてどうでもいい話ですね。。
    もうおわりにしましょう。

    バイトして、上京して結婚して、いろいろ回り道もしていっぱい迷惑をかけた。
    変わったことも変わらないこともある。
    いつまでたっても身体は弱い。運動は出来ないし怖がりだし、今もはや勉強もできない。

    今日わたしは洗濯して掃除して、ミシン踏んで、アイロンかけて、お菓子焼いてごはん作って洗い物して、掃除した。
    この数年、わたしは明確な目標を持てずにいる。
    腱鞘炎になる前に思い描いていた未来と、現実とのギャップ。

    でも、これが好きだという気持ちだけは明確にある。
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  • 生きること
    古い小説を読んでいて感じるのは、言葉の難しさや文体の違いより寧ろ、生きる死ぬということについてで、
    死、というものの遠さがもう、全然違う。

    昨日書いた、お義父さん、夫の父のこと。
    若いころに結核を患って、長く入院していた、らしい。
    治って退院して、働き、義母と結婚して息子と娘を育て、定年まで勤め、六十九で癌で亡くなった。

    わたしが夫と出会ったときにはもうこの世に居なくて、お義父さんはどんな人だったか、夫から、義母から、聞くことしかできなくて、
    入院して本ばかり読んでいたころのことや、「俺の命は拾ったようなもの」だと笑っていたらしいけれどのそんな気持ちを、実際、
    それをどう想像したって。
    夫でさえわからないと言う。
    わたしには到底わからないと思う。

    いつだったか義母が、父について、
    「十分呑めないままにいっちゃった」とぽつりと言ったのに、夫が、「いやもう十分すぎるくらいに呑んだよ」と言った。
    あのなんともいえない一瞬!
    つまりはごくありふれた、普通のそして最高に幸福な家庭だったのだと、心から知る。

    今年はいろんなことを考えるけれど、とりわけ、生命、がついてまわる。
    母が倒れた最初、電話で、「三割、三割、三割」だと言われた。
    でも今何事もなかったみたいに元気に過ごしているのを見ると、本当にもう心底、安心する。

    時代が代わる。生活が変わる。
    昨日飲んだビールのラベルには、1876年と書いてあった。さっき読んだ小説は、1930年に発行されたものだった。
    わたしは昭和何年といわれても、西暦で聞かないとすぐにはわからない。

    かわるもの、かわらないもの。
    わかること、わからないこと。

    今読んでも小説は同じ小説であり、ビールはビールだ。

    意味不明の日記をごめんなさい。
    平成最後の年に生まれた甥っ子は、さっき、バナナを食べていました。
  • 思い出話その7・一番最初の夢
    昨日は夜に見る方を書いたので、将来、のほうの夢の話。

    憶えている限りで一番最初の夢は、スーパーの店員さん。
    幼稚園の卒園文集に、友人たちはみんなケーキ屋さんお花屋さん看護師さんと人気のあるものを書くなかで、ただひとりなぜか、「スーパーのレジの人になりたい。」

    それも、そのころ新しくできたとあるスーパーの、と指定で、
    そこでは、レジの人がピピッと押すと、下から自動で釣り銭が出てきたり、手に持ってバーコードを読むのではなく機械の下を通して読み取ったりしていて。当時あれは、初めて見る、すごい最新機能のもの。
    かっこいい制服。広くきれいな店内。母に連れられて行くあのスーパーの、ひとつひとつが、眩しかった。

    お店の一角にパン屋さんもあって、買い物のあとに三人でパンを選んで。
    駐車場まで、誰がこの牛乳たくさん入った重い袋を持つのかって言い合って。
    そんな、日常の場所。

    スーパーで働いたことはないけれど、いくつものアルバイトで、レジ打ちは経験した。
    〜円頂戴致します、の瞬間、あの頃を思うとすこし誇らしく。いやでも今のレジは、あの頃より、バイトしていた頃よりまたさらに、進んでいるのだろうなぁ。キャッシュレスや支払機のところも多くなったし。

    緊急事態宣言の解除、となったけれど、
    近所のスーパーは、少し前から一時のあの混雑は収まり、だいぶん落ち着いて買い物ができるようになった。

    季節のうつりかわりは、スーパーの野菜コーナーから感じることがとても多い。
    今夜はこれ作ろうの予定を、瑞々しい野菜たちの誘惑によって変えたりするのがまぁ、本当にわくわく楽しくて。

    ちょっといつもと違うスーパーに行こう、とか。ゆっくり見て珍しいものを見つけた、とか。
    そんなありふれた日々が待ち遠しいと思う。

    店員さんたち、今日もお疲れさまです。
  • 思い出話その6・たまごサンド
    単純にすきなたべもの、というのとはちょっと違う温度で、あぁ今これが無性に食べたい!というのが時々ある。

    その率がずば抜けて高いのがたまごサンドで、ツナサンドでもハムレタスサンドでもカツサンドでもだめで、卵サラダでもオムレツでも、目玉焼きのトーストでもだめ。
    たまごサンドのときは、もう、完全にたまごサンドだ。

    中学生のころ、職業体験というやつで、小さなパン工場にお世話になった。
    地元のスーパーに卸し、工場には近所の人たちがすこし買いに来るような、古く小さなそこで、ほんの三日間だったけれど、将来料理の仕事をしたい、と思っていたわたしは、体験とはいえ結構本気、真剣だった。

    朝、先ずやったことが、大量のゆで卵を剥くこと。
    家でせいぜい5、6個を剥くのとは違う、100個以上の卵の山が鍋の中にあり、水を流しながらどんどん剥いていく。
    剥いた卵はボウルのなかで大量のマヨネーズと和えられて、サンドイッチになる。

    それから、パンや甘食を袋に入れて重さをはかり(すこし多めになるように)、
    赤いテープをがちゃんとやって(あの煎餅とか留めてあるようなちょっと開けづらいあれ)。
    包んだものを箱にいれたり。掃除も洗い物もした。

    それまで苦手で食べられなかったあんこを好きになったのも、あそこで、蒸し立てのお饅頭をいただいてから。
    うわー、こんな風にできるのね!と、大きな蒸し器、そして蒸し立てほかほかのお饅頭には、本当に感動した。

    あれから十年以上が経ち、カフェのバイトでも、家でも、何百回と卵を剥いて潰して、サンドイッチにした。
    でも、何度重ねても特別なものという思いは消えず、あれは本当にいい体験、だったのだと思い出す。
    こつんと割って、水に濡らし、つるりと剥きながら。

    ハムとレタスのサンドイッチ、とか、ツナのサンドイッチ、とか。他のものたちはみんな、サンドイッチ作ろう、中身何にしよう、の中のひとつなのだけど。

    たまごサンドだけは、まったく固有の、もう、完全にたまごサンドだ。
  • 思い出話その5・ムニエル
    大変に恥ずかしい話だけれど、わたしは食べ物の好き嫌いがとても多い子どもだった。
    ごはんが楽しみだ!とか、今日の給食は何かな?とか、完食、おかわり、そういう記憶がほぼ、ない。

    そんなわたしがたぶん、人生で初めておかわりした食べもの、ムニエル。

    母の焼いた、白い切り身にこんがりぱりぱり、黄金のきらきら。バターのにおい、ほんのりレモンのにおい。
    祖母たちの部屋の、和室の丸い机の上で、ママ、これもう1つ食べたい!
    ええ!?って、食べれるの?って、驚く母。うれしそうな母。
    マイ、ファースト、ムニエル。
    それが鱈だったか鰈だったか、魚の種類は忘れてしまったけれど。

    お肉が苦手。しかし野菜もほとんどが苦手。丼物も麺類も。甘すぎるものも、塩っぱい物も。
    果たして一体なにを食べていたのか、料理をする母に心の底から申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、いつだか聞いてみた、わたしはなにが好きだったの?

    「魚。」

    だ、そうで。
    たしかに。
    祖父が、自分で釣ってきた魚を捌いて飲んでいる夕方に、いそいそと隣に座り、この人の傍にいるのが一番美味しいものが出てくる。とは、子どもながらにしっかり知っていたなぁ。

    お刺身と、鯛や鮎の塩焼き。ししゃも。昨日の残りの漬けになったハマチや鮪。鯵の揚げたの。鰻の白焼き。それから、ちりめんと酢橘かけたご飯。
    …まぁ、なんて渋いのかしら。の、そこに初めてやってきた、黄金の、ムニエル。

    だいたい、魚とバター、って。
    あぁ、そして、その横の、バターの味がついたじゃがいもとほうれん草…。

    今はお肉も野菜も、ほとんどなんでも食べられて、苦手なのは内臓くらい。
    日々食べることは楽しみで、昨日もしっかり、ごはんをおかわりした。

    そんなわたしは三月生まれです。魚座です。